前日の混雑とは違い、土曜日の電車の中は空気までが違うように感じるのだった。乗客の顔からは緊張や殺気走った雰囲気を感じ取ることもなかった。
山路耕作はネクタイを少しだけ緩め、家から持って来た新聞を開いた。
今日は特別。
普段の日のギュウギュウ詰めの車内では中国雑技団のように体を小さくして新聞を読まなければならなかった。もちろん、そんな荒技に挑戦するだけの根性も体の柔軟さも耕作にはない。
その日の耕作は休日出勤のために電車に乗っていた。
耕作の会社は基本的には土曜日と日曜日は休みなのだが、建築資材を扱う関係から得意先の要望もあって土日でも当番を決めて電話の応対や簡単な配達をしていた。
もちろん、出勤すれば手当ても付く。目が飛び出る程の額ではないが、ちょっとした小遣いにはなる。
しかし、手当てが付くとは言っても月曜日から五日間たっぷり働いた体にはどっしりと疲れが溜まっており、休日の出勤は誰もが嫌がっていた。耕作の気持ちも同じなのだが誰かに頼まれると二つ返事で代わってあげることにしていた。本当は、誰でもいいから「代わってくれないか」と言い出すのを耕作は待っていた。
耕作は学生時代から付き合い続けた美智子と結婚して十年になる。昨年、ようやく念願の家を建てた。三十七歳の耕作にとって随分背伸びした買い物だったが、同期の誰よりも早くマイホームを持ったということに満足していた。おかげで、それまで半時間で済んでいた通勤時間は三倍に増えた。
結婚して四年目に生まれた女の子と、その二年後に生まれた女の子も今が一番かわいい時期を迎えていた。そんな子ども達と一緒に休日を過ごす事は耕作にとって何よりの楽しみの一つだった。だが、ローンの返済を考えれば土曜出勤の臨時収入を捨てることはできなかった。
普段の日は子ども達が眠っている時間に家を出る。ところが、土曜日の出勤はそれよりいくぶん遅くてもかまわなかった。
玄関先までパジャマ姿の子ども達が耕作を見送りにくる。
「早く帰ってきてね」
そんなあどけない声に送られて玄関を出る時、耕作は無常の喜びと主としての責任感を感じるのだった。さらに、妻の美智子も土曜日はパートも休みで余裕があるのか、朝食も割合凝った物を出してくれた。今日は和食であったが、先週はピザトーストとスクランブルエッグだった。
慌ただしく朝御飯を詰め込んで電車に飛び乗る毎日を考えると、空気までもがゆったりと流れているようだった。
それも耕作にとって土曜出勤の密かな楽しみの一つになっていた。
休日の出勤は、考えようによっては耕作にとって満足できる行事の一つになっていた。一家の主が家族のために働く、まさに大黒柱としての責任感と、そこから生まれる勤労意欲が耕作の体の中に泉のごとく沸き出てくるのだった。
ほのぼのとした雰囲気が充満し、溢れ出している車内で耕作は新聞に目をやり、朝食と子ども達の笑顔を思い出しながら例えようのない満足感に浸っていた。
しばらくは電車の揺れに身をまかせ、新聞に目を通していた耕作だったが、途中の駅から子連れの家族が乗り込んできたために新聞に集中できなくなっていた。
耕作の隣に座った女の子は耕作の娘と同じ年格好の子どもだった。
新聞を読む続けることを諦め、手持ちぶさたになった耕作は隣に座った家族の様子を何となく眺めていた。
耕作の隣で精一杯のおめかしをした女の子が、車窓の景色を見ようと窓の方に体を向けた。
耕作のズボンに女の子の靴が触れた。
「志帆ちゃん、おじちゃんのお洋服が汚れちゃうでしょ、窓の方を見るんなら靴を脱ぎなさい」
母親が女の子をたしなめる。母親の隣に座っていた父親が気まずそうな表情で耕作に小さく会釈し、詫びを入れる。
悪い気はしなかった。まるで自分の家族がそこにいるようだった。
女の子はしきりと父親に質問をしていた。その多くは他愛もない質問だったが、丁寧に答える父親の言葉の端々から、その子の父親も耕作と同じように普段はこの電車に乗って通勤しているサラリーマンであることがわかった。
父親は、多分久し振りの家族サービスなのだろう、いかに自分が家族のためにがんばって働いているのかを懸命に娘に伝えようとしていた。
そんな父親の思惑は大きく外れ、娘は父親の話に曖昧にうなづき、外の景色に心を奪われていた。
ほのぼのとする情景に、残してきた家族のことを考えると少しだけ寂しい気がしないでもなかった。
「だからサッチの場合は幼児体験にその原因があると思うんだ」
「違うよ、単に好き嫌いだっつーの」
「ちょっとあなたたち、勝手に人の嗜好を話題の中心にしないでもらえる。存在を無視されたみたいでチヨーむかつくんだ」
突然、にぎやかな会話が耳に飛び込んできた。先程の駅で乗り込んできた三人組の男女だ。電車内の中吊り広告に目をやって会話をしていた。
回りの乗客の迷惑になるか、ならないか。ギリギリの大きさの声だった。
無意識のうちに耕作の興味は家族連れから三人組に移っていた。何の話で盛り上がっているのか気になった耕作は、三人が見ている中吊り広告に目をやった。
『煮物百選』『今、旬の野菜は煮物で!』
三人組は今週発売された月刊誌の特集の記事で言い合っているのだった。
「だって煮物なんて面倒臭いだけでしょ。冷めても美味しいなんてちょっとおかしいとは思わない。それって食べさせられる人が無理に言わされているんじゃないの」
「味がそれだけ染み込んでるってことじゃないかな」
「じゃあ、ヒロシは煮物がスキなわけ。あなたこの前は俺にはイタメシが口に合ってるって言ったわよねー」
「ノスタルジーだな。今時煮物なんて田舎臭いバアさんが点数かせぎに作る超古典的な料理だろ」
「砂糖を適当に入れて煮るだけで出来るんでしょ。お袋の味なんて言ったって単なる手抜き料理だよ。砂糖もガチガチに固まったものを割り箸か何かでガシガシ削り取って入れるんだよ。私ね、見ていてゲーってなっちゃったことがあるのよ」
「ちょっと二人とも勘違いしないでもらいたいな。俺だってあんな料理は料理なんて思ってないさ。煮物なんて出されても箸も付けないもの。オヤジはありがたがって食ってるけど、あれはやっかい者にあてがう餌だと思うね」
「里芋の煮っころがしなんて妙な糸が引いてて気持ち悪いし、キンピラゴボウなんて切りカスを食べてるみたいで最低の料理だね」
真剣に聞こうと思って聞いていたわけではない。あまりに三人の声が周囲の人間を無視した大声であったため、耕作は全ての会話をしっかりと聞いてしまったのだった。そして無性に腹が立ってきた。
耕作が今日の出がけに食べた朝食は、偶然にもたった今三人の若者が最低の料理と言っていた里芋の煮っころがしとキンピラゴボウだったのである。
二つとも耕作の大好物だった。あんまり料理が得意とはいえない美智子が、正月や盆に耕作の実家に帰るたびに耕作の母親から作り方を聞き、さらに工夫して作ってくれた愛情の籠った料理だった。
それを大声で、周囲の者にまで聞こえるようにけなされると、今まで気持ち良く土曜日の穏やかな通勤を楽しんでいた耕作にとって腹立たしい気持ちになってくるのだった。そして何より、朝早くから耕作や子ども達のために料理を作ってくれた美智子の事を考えると不憫にさえ思えてくるのだった。
次の停車駅を告げるアナウンスが聞こえてきた。回りに座っていた乗客の何人かが、降りるために身繕いを始めた。耕作の隣で座っていた家族も次の駅で降りるのか、母親が女の子に靴を履くように促していた。
「ママ、みーちゃんはママの作る料理は何だって大好きだよ」
外を見ていたとばかり思っていた女の子も三人の会話を聞いていたようだった。
電車がプラットホームに滑り込み、家族は降りて行った。
「あの薄汚いガキのせりふ聞いたかい」
「ええ、泣かせる台詞よねぇ。貧困ファミリーの会話ってとこね」
「甲斐性も無いのに子どもを作るからあんな風になるんだろうな」
耕作は三人の会話を苦々しく聞いていた。聞きたくはなかったが、大声で話すために嫌でも耕作の耳に届いてくるのだった。耕作と同じように車内でも、三人の会話に不快感を感じている乗客がいるようで、三人組を不審な人物でも見るような顔付きで見ている者が何人かいた。
そんな雰囲気にはお構いなしに三人の会話は続いていた。
「どうするの、卒業でしょ」
三人組の話題は次々と変わっていた。
「ああ、内定は貰ってあるんだ」
「ウッソー。今までそんな事言わなかったじゃない」
「屈辱的な事だからな。だってこの俺がだよ四月からドブネズミ色のスーツに身を包んでバカみたいな上司や早く生まれただけで能力も無い先輩に訳の分からない事を言われて働らかされるんだよ。まったくやってられないよ」
「そりゃそうだ。はした金で会社に雇われた無能な連中は甲斐性も無いくせにやたらとイバリまくるんだからな。まっ、それしか楽しみも無いんだろうしな」
「サッチはどうするんだよ」
「あんたたちみたいなバカとは付き合ってられないわ。今時郊外に一戸建てを建てて喜んでる小市民なんかには用はないわ。適当に遊んで玉の輿よ」
「そうだよな、そんな人生最悪最低の奴隷のような生活はやってられないよな」
まさに耕作の人生そのものを三人は侮辱していた。
怒りで震える体を、俺は社会人だからと自分自身を説き伏せ、三人をにらみ付けることで我慢した。
三人とも耳に大きなピアスを付けていた。(まったく、あんなクズのような男に内定を出すなんて何て会社だ。よっぽどヒドイ会社に違いない。それにあのインコみたいな女は何だ。派手なだけで少しも可愛くないじゃないか。あんな下品な女が玉の輿なんて乗れるもんか)
心の中で耕作は三人に毒づいていた。
耕作の会社がある駅に電車が着いた。耕作はわざと三人に体を当てるように急いでドアから降りて行った。
「何だよあのオッサン。頭おかしいんじゃないの」
「ムカツクわね。ダサイったらありゃしないわ。あんたたち。絶対にあんなオッサンにはならないでね」
「休日までドブネズミスーツで働いているんだから、どうせウダツの上がらない中小企業の窓際族だろ」
プラットホームに降りた耕作の耳に三人の会話が届いていた。
いつもより空いている駅の構内を重い足取りで耕作は歩いていた。
三人組の会話から、彼等は卒業を間近に控えた大学生だろうということが予想できた。十数年前の耕作も彼等と同じような若者だった。しかし、あんなに傍若無人で横暴ではなかった。今もその時と変わらない気持ちで毎日を送っている耕作にとって、彼等からオッサン扱いされたこともがいつまでも心に引っ掛かり、苛立つ原因になっていた。

|